生きて兆まで届く劣情

悶々と日々は続く

学ランの袖から覗く劣情

皆さん、学生服は学ラン派ですか、それともブレザー派ですか。

私は断然学ラン派です。

しかし世の中の人はブレザー派が多いらしいですね。あくまでも私調べですが。

学ランは古臭くて野暮ったい。平たく言うとダサい。それがブレザー派の人々の言い分です。確かに、今時の学生服はブレザーが主流となっているようですし、学ランは確かに昭和時代の遺物という感は否めません。形も長方形でボディラインが出ないため、もったりとしたシルエットになりがちだという不満も分かります。

 

しかし私は、それでも学ランを推したい。

世間の流れがブレザーだというのなら、私は常願寺川だって上ります。

 

学ランはギャップ萌えの泉だと私は思うのです。

一見すると学ランには隙がありません。言うなれば鎧です。詰襟、分厚く装飾のほとんどない布地、校章の刻まれた重厚なボタンや、直線性の強い無骨なシルエット、それらは普段、堅牢な城門のようにして、成長期の若干柔らかみの残る筋肉や、細いけれども意外と筋張った腕や、ぷりっと弾けるおちりやなんかをひた隠しにしています。短ランの場合臀部は露わになりますが。

まずそこに色気が出るのです。

こんなにも固く閉ざされた扉を、もしも開いてしまったとしたら。そこにはどんなお宝が眠っているのかしら。秘すれば花とはまさにこのこと、ボタンとボタンの隙間に指をかけて、その扉無理やり引き裂いてしまいたい。

で、その重たい2枚の扉板ですがやはり完全には閉められないわけで、ミリ単位の隙間が出来てしまうんですよ。

それが「袖口」です。

 

私が高校1年生だった時。空は薄ら曇っていて、冬の朝に特有の白くて柔らかい太陽がちぎれ雲の隙間から覗いていました。自宅から30分間ほど寒空の下でペダルを必死に漕いできた、朝から既に少し気怠い自転車通学生だった私は、ごとごとと鞄を起き、リュックサックを下ろして席につこうとしました。

ふと、隣の席の男子学生が目に入りました。

彼は印象的な生徒でした。いつも自分の席で数学の分厚い参考書を解いていて、四角いフレームの眼鏡を掛けていました。といっても「ちびまる子ちゃん」の丸尾くんのようなタイプではなく(丸尾くんはたしかに丸眼鏡ですがそういうことではなく)、たまに話しかけると私のような心根が腐っている人間に対しても、あまり大きくない声で優しく穏やかに、時にはささやかなユーモアを添えて応えてくれる、出来た人間でした。

そんな彼の学ランの袖から、骨ばって血管の浮き出た意外と雄々しい手首が

 

普段の彼のタイプとは真逆の、ごつごつとした岩のような腕時計が

 

覗いていました。

 

彼はいつも通りの真剣な眼差しで参考書を見つめていて、彼(の手首)に釘付けになっている私の視線には気づきません。

私は魂を抜かれたように椅子に座り、そのあともずっと白い朝日に照らされる手首を食い入るように見つめ続けていました。

 

その日から私は学ラン星人です。

 

 

 

 

今年もまた、学ランの足音が聞こえてくる季節となりました。