生きて兆まで届く劣情

悶々と日々は続く

届かぬ声は秘める劣情

コンプレックスという言葉があります。

聞いた話なのですが、何かがコンプレックスになってしまうとき、そこには2つの原因が絡んでいるそうです。1つはそれが本当に自分に当てはまるという実感、もう1つはそれが悪いことだという感覚だといいます。つまり自覚と罪悪感のふたつを同時に感じてしまったとき、コンプレックスが生まれるというわけです。

 

ところで私のコンプレックスは声が小さいということです。もっと正確に言うと、声が小さいうえに滑舌が悪く、下を向いて話しがちで、吃ってしまうこともあり、地声が割と高いのを気にしているがために人と話すときは金切り声にならぬようわざわざ声を一段階低くして話し、その他諸々の原因により声が通りにくいということです。長いので、便宜上普段は声が小さいと言わせて頂いております。

 

ここ2週間ほどは特に私にとってコンプレックス抉られ旬間でした。

ほぼ毎日お会いする(しなければならぬ)年上の方が1人いらっしゃるのですが、1度の会話ターンで5回ほど同じ内容を聞き返された日がありました。そこそこお年を召された方なのでそれもあるかもしれませんが、いくらなんでも5回はションボリ致しました。

生まれた時から声が小さく、母曰く産声は「ホニャア(小)」だった私ですので、幼少期通わせて頂いた保育園や各種学校、習い事でも声が小さいと言われたり、挨拶をしても深々とお辞儀をしなければ気付いていただけなかったり、2~3回同じことを聞き返されたり、その末に諦めた適当な返しを曖昧な微笑みとともに頂いたり、そんな事例は毎日のように経験し続けて慣れております。声が通る方には分かっていただけないかもしれませんが、漫画でよくある

A「………この時間が、ずっと続けばいいのにな………(ポソッ」

B「え?なんて?」

A「なんでもない!///」

みたいな会話は、フィクションだから良いのであって、現実で起こったとしたらBの申し訳なさそうな表情とAの意思疎通を諦めた悲しい声色で空気は梅雨色に染まってしまいます。あれはスクリーントーンのなせる業なのです。

 

さらにショックなのは、その方は、私が思う限り私より声量が小さいような方々の声は聞き取っているということです。問題は単なる声量ではないのです。

 

自分は人より会話が下手であるという事実は、知っているようで改めて自覚しだすとかなりの殺傷能力を持ち始める武器です。しかも返しが付いているので簡単には除去出来ないのです。

 

冒頭でも述べた通り、コンプレックスは自覚と罪悪感から生まれるのです。それに従うと、私は自分の声の通りにくさを自覚しているだけでなく、声が通りにくいということを悪だと考えているということになります。

私は声が通りにくいことを悪だと言う人間でありたくはありません。しかし自分の声が通りにくいがために何かが起こるたび、人にまた迷惑をお掛けしたと悲しくなります。これまで生きてきた中で声が小さい、聞こえないと叱咤激励され続けてきた経験が私をそんな気持ちにさせるのでしょう。

断っておきますが、私はけして声量が一定以上あることを前提としたこの社会構造と大きくて聞こえやすい声の人間を正義に位置付ける教育制度を批判したい訳ではありません。

 

しかし、この現代の社会において、いまだに聴覚からの情報を第一に据えたがる皆様の気持ちは私には量りかねます。平安時代でさえ、貴族は自分自身と家の命運を決める「恋愛」という一大会話イベントを文と歌に司らせていたのです。

皆が紙芝居もしくはフリップ芸人よろしくスケッチブックを持ち歩く社会は幸せではないでしょうか。

ペン先からミミズを生み出すタイプの方々からは非難轟々でしょうね。