生きて兆まで届く劣情

悶々と日々は続く

いつか来る日まで捨てぬ劣情

お尻を触るのが大好きです。

これだけ書くと大変態の犯罪者予備軍、というかむしろ犯罪者そのものにしか見えませんが、実際に触るのは自分のお尻だけだし触る時は優しく触ります。痛いのはNGです。

 

昔から、白くて柔らかい、弾力があって肌触りの良い物体が好きでした。大福も、お餅も牛乳寒天も、ミルクプリンも杏仁豆腐もババロアも大好物。世界中の幸せを一ヶ所に集めたような食感と、つやつやと光の玉を集めて照り輝く宝石のような外観を、全て私のものにして体内に取り込めるということが何よりの幸せだと、拙いこころで思っていました。

そしてお尻はその中の頂点に君臨する、いわば別格の存在でした。自分のお尻は自分では頬張れないという欠点を補っても余りある圧倒的質量。二つに割れていることで生まれるメリハリ。このささやかな芸術が、私の一部であるという奇跡。ありがたいことに、私は色白で肉付きもよく、自転車が主な移動手段なので程よく弾力もあり、見た目の面でも私的パーフェクトなのです。どうだまいったか。

 

ちなみに、他人様のお尻も好きです。老若男女問わずどんな方のお尻も大好きですが最近理想的だと思っているのは40代の男性のデスクワーカーの方の筋肉と脂肪のマリアージュが美しくスラックスの中でぱんと張っているボリューミーなお尻です。

他人様のお尻の素晴らしい点は、やはり何をおいても私が頬張ろうと思えばいつでも頬張れるという点です。それどころか歯跡だってつけられますが大事なお尻を傷つけるわけにはいかないのでそんな粗野なことは致しません。いいお尻様にお目見えした際には、ただとにかくちらと目を向け、あとはお洋服(もちろん和服でも構いません、とても素敵です)をそっと剥いて吸ったり揉んだり舐めたりぺちぺちしたり愛おしんだりと好きなだけ堪能する想像をするだけです。

この時、じっと眺めたり実力行使したりしてしまうと、お尻様にストレスがかかり、負担になってしまうので、あくまでも「見やる」程度にとどめておきましょう。

 

いつか全てのお尻をコピー&ペーストしてお部屋に大事に飾っておける日が来る、その時まで。

届かぬ声は秘める劣情

コンプレックスという言葉があります。

聞いた話なのですが、何かがコンプレックスになってしまうとき、そこには2つの原因が絡んでいるそうです。1つはそれが本当に自分に当てはまるという実感、もう1つはそれが悪いことだという感覚だといいます。つまり自覚と罪悪感のふたつを同時に感じてしまったとき、コンプレックスが生まれるというわけです。

 

ところで私のコンプレックスは声が小さいということです。もっと正確に言うと、声が小さいうえに滑舌が悪く、下を向いて話しがちで、吃ってしまうこともあり、地声が割と高いのを気にしているがために人と話すときは金切り声にならぬようわざわざ声を一段階低くして話し、その他諸々の原因により声が通りにくいということです。長いので、便宜上普段は声が小さいと言わせて頂いております。

 

ここ2週間ほどは特に私にとってコンプレックス抉られ旬間でした。

ほぼ毎日お会いする(しなければならぬ)年上の方が1人いらっしゃるのですが、1度の会話ターンで5回ほど同じ内容を聞き返された日がありました。そこそこお年を召された方なのでそれもあるかもしれませんが、いくらなんでも5回はションボリ致しました。

生まれた時から声が小さく、母曰く産声は「ホニャア(小)」だった私ですので、幼少期通わせて頂いた保育園や各種学校、習い事でも声が小さいと言われたり、挨拶をしても深々とお辞儀をしなければ気付いていただけなかったり、2~3回同じことを聞き返されたり、その末に諦めた適当な返しを曖昧な微笑みとともに頂いたり、そんな事例は毎日のように経験し続けて慣れております。声が通る方には分かっていただけないかもしれませんが、漫画でよくある

A「………この時間が、ずっと続けばいいのにな………(ポソッ」

B「え?なんて?」

A「なんでもない!///」

みたいな会話は、フィクションだから良いのであって、現実で起こったとしたらBの申し訳なさそうな表情とAの意思疎通を諦めた悲しい声色で空気は梅雨色に染まってしまいます。あれはスクリーントーンのなせる業なのです。

 

さらにショックなのは、その方は、私が思う限り私より声量が小さいような方々の声は聞き取っているということです。問題は単なる声量ではないのです。

 

自分は人より会話が下手であるという事実は、知っているようで改めて自覚しだすとかなりの殺傷能力を持ち始める武器です。しかも返しが付いているので簡単には除去出来ないのです。

 

冒頭でも述べた通り、コンプレックスは自覚と罪悪感から生まれるのです。それに従うと、私は自分の声の通りにくさを自覚しているだけでなく、声が通りにくいということを悪だと考えているということになります。

私は声が通りにくいことを悪だと言う人間でありたくはありません。しかし自分の声が通りにくいがために何かが起こるたび、人にまた迷惑をお掛けしたと悲しくなります。これまで生きてきた中で声が小さい、聞こえないと叱咤激励され続けてきた経験が私をそんな気持ちにさせるのでしょう。

断っておきますが、私はけして声量が一定以上あることを前提としたこの社会構造と大きくて聞こえやすい声の人間を正義に位置付ける教育制度を批判したい訳ではありません。

 

しかし、この現代の社会において、いまだに聴覚からの情報を第一に据えたがる皆様の気持ちは私には量りかねます。平安時代でさえ、貴族は自分自身と家の命運を決める「恋愛」という一大会話イベントを文と歌に司らせていたのです。

皆が紙芝居もしくはフリップ芸人よろしくスケッチブックを持ち歩く社会は幸せではないでしょうか。

ペン先からミミズを生み出すタイプの方々からは非難轟々でしょうね。

僭越ながら望む劣情

こんな私にも、好きなタイプというものがあります。

そこでなのですが、好きなタイプというものは短ければ短いほど格好が良いと思うのです。例えば、

Q:好きなタイプは?

(A)年収が1億で、美味しいものとか沢山知ってて、外車に乗ってて、ロレックスが良く似合う、スーツをちゃんと仕立てて着てて、休日には観劇とか美術館に行くような人

(B)良い手帳を使ってる人

この御二方は、パートナーの条件として同じ「潤沢さ」を所望していらっしゃいますが、明らかにBさんの方が聡明で、かつ性格が良さそうに見えるではないですか。

そう、好きなタイプを聞かれた際は、簡潔に、出来れば一言で、イメージしやすいあるあるを言うのがお洒落でスマートな作法なのです。(私調べ)

 

しかし悲しいかな、人間の欲求には限りがありません。画面の向こうの貴方様、お尋ねしますが、好きなタイプを一言で述べるという行為は可能でしょうか。この世は映画ではないのです。

そこで私は考えました。私の好きなタイプを、格好良く告げる方法を。出来れば捨て台詞のように一言鋭く放って去ってゆきたいものです。人間には、咄嗟に好きなタイプを一言で述べることは不可能かもしれませんが、それがしっかりと考え抜かれ、洗練されたものであるならば不可能を実現することも可能なのです。

 

そして出た結論は「私のことをちゃんと叱ってくれる人」というものでした。

 

私は自分が褒められることが本当に苦手なのです。自分が人のことを褒めることは本当に好きだし、心の底から褒めるのですが、人からの褒め言葉は全て嘘だと思ってしまいます。もちろん失礼に当たるので本人に嘘でしょうと指摘することがないように気をつけてはおります。

そんな卑屈な私にとって、褒め言葉よりもむしろ信じられるものはお叱りの言葉です。悲しい価値観ですが、特に何も思っていなくても褒めることは容易であっても特に何も思っていないのに文句を言ったり叱ったりすることは出来ないと思うのです。だから私のことを「ちゃんと」叱ってくれる人はきちんと私のことを考えてくれているのだろうという理屈でございます。さらに、「ちゃんと叱る」という行為は、叱り手の観察力、自己表現力、問題解決能力、倫理観など様々な能力から成り立っているのです。 

こういった理由で、私は上記の「私をちゃんと叱ってくれる人」を自分のパートナーに所望致します。

 

理由の性格悪さはひた隠しにしようと思います。

お久しぶりに放つ劣情

なんだか久しぶりになってしまいました。実を言うと元々、私はこのブログを毎日続けようと思ってはいなかったのです。はじめの4日間くらいの間は都合の良い日が連続していたので、まあ書けるうちにたくさん書かせて頂こうと思ってたくさん書いたのでした。そうしてここしばらくは都合が悪くなってしまって、書くのをお休みしていた次第なのです。今後は毎日書けるようなことは少なくなると思います。また毎週何曜日の何時頃に更新致しますと確約することも難しいです。気のまぐれのままに更新してゆきたいと思っておりますので、どうか悪しからず。

 

ところで、このところ私はずっとお暇を頂いて自宅におります。同居人が流行病にかかってしまい、その人と接触が濃厚だからという理由によるお暇でした。案の定別の同居人たちも罹患しましたが、なぜか私だけかからず家事に追われていました。家事の他にすることがなかったのでブログを開設したりしていました。

ところがその後、まあ避けられない運命と言うべきか私もかかってしまいまして、現在もお暇期間中です。

 

とはいえ諸行無常、この2週間ほどのお暇も今週いっぱいで終わりなのです。

 

 

社会復帰が恐ろしいのです。

 

 

いわゆる「シャバ」といいますか、世間サマといいますか、とにかく自宅の外に出るということ自体はやはり久しぶりなので、それなりに楽しみで仕方がありません。しかし私は、ありきたりですが人が怖いのです。

私が平日の日々のほとんどを過ごす場所を、愛情込めて「当局」と呼ばせて頂きましょう。当局に来る人はもちろん私以外にもたくさんいらっしゃって、幸せなことに皆様本当に良い方ばかりです。それなのに私は妄想してしまいます。本当は誰も私の復帰など望んでいないのではないだろうか。普段なかなか休まない私がしばらく居なくなって、いつも感じていた異物感の正体は私だったと、気づいてしまっているのではないか。私がいない方がこの世は上手く回ると分かって、私が帰ってきたら皆さん優しいから再会を喜ぶ顔をしてくれるけれど、心の内では「ああ、せっかく上手くいっていたのに」と落胆なさるのではないか。そんなことを考えていると、まず皆さんにそんな思いをさせるのが申し訳なくなり、次に妄想の中で皆さんをそんな風な性格の悪い人間に仕立て上げて被害妄想に耽るような、いちばん性格の悪い私が心の底から憎らしくなってくるのです。

こんなことばかり考えていると寝付きが悪くなってしまいます。優しいだれかが、そんな時はホットミルクを注いで、身体が温まれば心も温まるんだと私に教えてくれました。

だけれども自分に優しくしたくない夜もあるのです。

そんな時は自分を雑に扱っても良いのではないでしょうか。責めて、いたぶって、凍えさせて、そこまでしなければ涙も流せないほど申し訳なくて、心苦しい時だってあります。きちんと苛めたあとは、きちんと元に戻すことが出来るなら、たまにはそんな苦い夜があってもいいはずだと思うのです。

もちろん人としては何だか歪んでいる自我の保ち方だし、健康か不健康かで言えば間違いなく不健康の側だと思いますが、私は人生のすべてを合理と健康と正しさと効率に捧げるなんて甚だ恐ろしいと思ってしまうような人間ですので、そういうひねくれた人間にとって毎日自分を大切に生きるということがどんなに難儀で身を削ることなのか、どうか優しい方々にはご理解を頂きたいのです。

よいではないですか。不安に首を絞められて眠れなくなったなら、せっかくの秋の夜長に洞穴のような小説でも読んで、自分をもっともっと不安の渦に呑み込ませてしまえばよいのです。

 

よいではないですか。

耳から脳へ溶けだす劣情

昨日のブログはなんだか妙に叙情的になってしまいました。失礼いたしました。深夜の馬鹿力で無理やり似非乙女にされてしまうところでした。今後は厳重に警戒致します。

という訳で本日はネタが急流下りしそうな匂いがします。身体を崩されないように窓を開けて換気しながら使用なさることをお勧めします。

私の趣味はASMR動画を視聴することです。

少し、嘘をつきました。

私の趣味はASMR動画を視聴して脳天から腰にかけて流れるキモチイイ電流に反応して勝手にびくんびくん跳ねるすけべな腰を悦ばせることでございますお嬢様。お許しください。ついでに虫を見る目で見下してください。

私はどうやら人よりも聴覚情報に敏感らしい、と気づいたのは中学校の修学旅行で行った遊園地でした。その遊園地には体験型ホラーハウスのような施設がありました。その施設は4DXのホラー映画を観る部屋と真っ暗な部屋でバイノーラルのホラー音声を聴く部屋のふたつの部屋に分かれており(ストーリーは別)、私はホラーが苦手な友人に誘われ、4DXの陰に隠れて貸切状態のバイノーラル部屋に入りました。時間が来ても結局2人きりのまま、赤いジャンパーのお兄さんが電気を消しドアを閉めて下さり、ヘッドフォンから音声が流れ出しました。

吸血鬼のなんたら男爵「ようこそ、わg

2人「「いぎゃああああぐああああ@¥$#*?!!

 

開始3秒も経たないうちに私たちは絶叫していました。友人は恐怖のために。そして私は、はじめて感じた腰の浮遊感とつむじから首筋へ下りるとめどない鳥肌のために。

正直この後の内容は覚えていません。勝手に反りまくり続ける背中を何とかおさめようとすることに必死でした。最後に扉が開いて入っていらっしゃった赤ジャンパーお兄さんに、終始恐怖に叫び続けていた友人が一番の大絶叫を披露していたこと以外何も覚えていません。

私は幼少期から、耳元で囁かれたり何か音を立てられたりしてびくっとなることが頻繁にありました。その反応は誰にでも共通なのだろうと思っていました。ところがそのホラーハウスで、友人は、じたばた椅子の上で身をよじり悶えている私を尻目に微動だにせず悲鳴だけをあげ続けていたのです。ちょうど、内容に関しては特に恐怖を感じるポイントが分からず、青ざめ絶叫する友人には目もくれず一心不乱に喘ぎ声をあげ腰をくねらせ続ける私のように。その時はじめて、私はASMR(脳内絶頂反応)を体験し、さらに自分が「耳が弱い」人間なのだと知りました。

それから私はASMRという単語を知り、その類の動画を漁り片っ端から聴き潰しました。囁き、地声、耳かき、タッピングなどのメジャーでライトなものから、耳舐めや咀嚼音などディープで人を選ぶものまでとにかく聴きまくりました。その結果、私は男性の低音ボイスが右耳の斜め後ろ約15°または頭の真上から降ってくるとどうしようもなく抑制が効かない身体になってしまいました。わかる方にはわかって頂けると思うのですが、ASMR動画は聴けば聴くほど慣れるということはなく、耳や脳の感度が研ぎ澄まされてゆきます。現在の私は、条件次第では自分に話しかけていなくても男性の声が斜め後ろから聞こえるだけで気持ちよくなるくらいの感度に育ってしまいました。

弱いなら聴かなければいいのに、と思われるかもしれませんが、この耳から入った音で脳が溶け、首の付け根から腰あたりの糸が引っぱられ自分でも引くほど腰が浮く、という感覚が気持ちよすぎるのでやめたくてもやめられないのです。なんだかイケナイお薬のようだなあと思いますがまた求めてしまうのです。こうして人は何かに依存してゆくのだな、とはじめて依存症のプロセスが分かりました。

 

防ぐことは知ることから始まる。精神と身体の健康のために、皆さんASMR動画をお耳に入れることをおすすめします。

 

大都市の夢は続く劣情

今週のお題「マイルーティン」

なにか同じことを続けるということが、すこぶる苦手です。こんなふうにしてブログを書いているような方は、大抵継続力に溢れている方がほとんどなのではないかと思いますが、そういう方は本当に尊敬いたします。三日坊主という言葉がありますが、私に関しては三日も続けば上出来です。

そんな私にも毎日繰り返す習慣があります。

 

それは「腕時計を着ける」ということです。

 

平日の朝、自宅のドアを開ける前に必ず腕時計を着けます。

この腕時計は誕生日に頂いたもので、私が住んでいる田舎のショッピングモールの一角に店を構える時計屋さんに行き、自分で選んだ「ちょっといいやつ」なのです(箱の中には発色の良いドライフラワーが一緒に入っていたので「ちょっといいやつ」なのだと思います)。聞くところによるとロンドンの地下鉄がモデルになっているらしく、地下鉄の通っていない田舎住みの私は想像することしか出来ませんが、確かに大都市の夜空を思わせるような乾いた紺色の革のバンドに囲まれて華やかな繁華街のように輝くシャンパンゴールドで縁取られた白い文字盤は、私を大都市ロンドンの夜へ連れていってくれるように感じます。

その文字盤というのが、これまた都会のコンクリートのビル肌のような冷たく硬質な色気を放っているのです。白くて、ひんやりとしていて、細い2本の針と無表情な黒い数字が3の倍数だけをぽつりぽつりと素っ気なく告げています。きっと都会の夜の交差点ですれ違う女性はこんなふうなのでしょう。彼女はただ冷たいだけのひとではありません。バーで君の瞳に乾杯しちゃったりなんかすると、案外チャーミングでコケティッシュな可愛らしいひとなんだと分かるはずです。その文字盤の真ん中には、三日月型の小窓がついていてそこから可愛らしい5つのツノを持つ満点の星に彩られた夜空が見えます。この小窓は今宵の月の形をみる為のものです。30日間かけて丸くぷっくりとした小さな金の月が小窓を通過すると、毎日見える形が移り変わり、そうして私に月の形を教えてくれるのです。なんともお茶目で小粋な仕掛けではないでしょうか。

 

私は明日もまた、夜の街を駆け抜ける夜空色の地下鉄に乗って星のトンネルをくぐるのでしょう。黄金の朝日のピンバックルで夢に終止符をうって、なにかの野鳥の声が遠く響く田舎道を駆け出してゆく。明日も明後日も明明後日も、慌ただしく日々は繰り返します。

学ランの袖から覗く劣情

皆さん、学生服は学ラン派ですか、それともブレザー派ですか。

私は断然学ラン派です。

しかし世の中の人はブレザー派が多いらしいですね。あくまでも私調べですが。

学ランは古臭くて野暮ったい。平たく言うとダサい。それがブレザー派の人々の言い分です。確かに、今時の学生服はブレザーが主流となっているようですし、学ランは確かに昭和時代の遺物という感は否めません。形も長方形でボディラインが出ないため、もったりとしたシルエットになりがちだという不満も分かります。

 

しかし私は、それでも学ランを推したい。

世間の流れがブレザーだというのなら、私は常願寺川だって上ります。

 

学ランはギャップ萌えの泉だと私は思うのです。

一見すると学ランには隙がありません。言うなれば鎧です。詰襟、分厚く装飾のほとんどない布地、校章の刻まれた重厚なボタンや、直線性の強い無骨なシルエット、それらは普段、堅牢な城門のようにして、成長期の若干柔らかみの残る筋肉や、細いけれども意外と筋張った腕や、ぷりっと弾けるおちりやなんかをひた隠しにしています。短ランの場合臀部は露わになりますが。

まずそこに色気が出るのです。

こんなにも固く閉ざされた扉を、もしも開いてしまったとしたら。そこにはどんなお宝が眠っているのかしら。秘すれば花とはまさにこのこと、ボタンとボタンの隙間に指をかけて、その扉無理やり引き裂いてしまいたい。

で、その重たい2枚の扉板ですがやはり完全には閉められないわけで、ミリ単位の隙間が出来てしまうんですよ。

それが「袖口」です。

 

私が高校1年生だった時。空は薄ら曇っていて、冬の朝に特有の白くて柔らかい太陽がちぎれ雲の隙間から覗いていました。自宅から30分間ほど寒空の下でペダルを必死に漕いできた、朝から既に少し気怠い自転車通学生だった私は、ごとごとと鞄を起き、リュックサックを下ろして席につこうとしました。

ふと、隣の席の男子学生が目に入りました。

彼は印象的な生徒でした。いつも自分の席で数学の分厚い参考書を解いていて、四角いフレームの眼鏡を掛けていました。といっても「ちびまる子ちゃん」の丸尾くんのようなタイプではなく(丸尾くんはたしかに丸眼鏡ですがそういうことではなく)、たまに話しかけると私のような心根が腐っている人間に対しても、あまり大きくない声で優しく穏やかに、時にはささやかなユーモアを添えて応えてくれる、出来た人間でした。

そんな彼の学ランの袖から、骨ばって血管の浮き出た意外と雄々しい手首が

 

普段の彼のタイプとは真逆の、ごつごつとした岩のような腕時計が

 

覗いていました。

 

彼はいつも通りの真剣な眼差しで参考書を見つめていて、彼(の手首)に釘付けになっている私の視線には気づきません。

私は魂を抜かれたように椅子に座り、そのあともずっと白い朝日に照らされる手首を食い入るように見つめ続けていました。

 

その日から私は学ラン星人です。

 

 

 

 

今年もまた、学ランの足音が聞こえてくる季節となりました。